ボクラノキセキ(以降ボクセキ)なので買ったので、ボクセキ以外の作品は収録してもいいが、もうちょっとボクセキ世界に居たかった。
コミックス単行本のタイトルは普通に表題作は一編で、後は無関係の他のものであることは普通なのだが、自分の中で大プー
ムにあるだけに結構物足りなかった。
久米田先生の作品のコミックス未収録だったものを拾っておくチャンスという役割と、別作品の中に垣間見えるボクセキに連なる久米田タッチを見出だせる要素とで、それなりの存在感は放つ。ばっかりでは飽きるかも、という構成の工夫というのも判る。目が大きい時期もおありだったのか、などの意外感も、作家への周辺的知識増強としては喜べる。
本編の重層的成り立ちからすると、あっさり具合が悪目立ちしてしまった。
それでも、本編の方で人物の「見分けがつかない」を最大の理由にして評価を落としているレビューアーさんたちを見かけると、このように「普通」の登場人数で眺めてないでしょ、と反論したくなる。
普通は人物の描き分けは、こうして他作品における共通項が見えてることで、似ているのは仕方のないことという暗黙の了解があるものだ。同じ作家の手になるのだから。
油彩画家モディリアーニなんてどうするの、諸先生には皆作風というものがあって似通うのは仕方がない。それを唯一の減点材料とするなんて、過激な糾弾に思える。離れた所から見れば似てるものを、近くで見ればそれぞれ違うなんて世の中に普遍的にある。
そして、どの作家も、大画家ピカソでさえも、時代によって筆遣いは変遷する。
当人の精進もあるだろうし、画業の長い先生なら尚のこと、名声が高まりかなり脂の乗った時期の作品を初めて知ってからファンになると、ギャップは大きい。ミュージシャンだって発表作品の雰囲気は変化する。
ボクセキは今をときめくスタイルで描かれているために絵が古いとの印象は全く持たれないが、この、古いかどうかとの理由で星数を判断するのも別の意味で極論だと感じている。
作家がどのスタイルで発表しても、世の中の流行り廃りや、先生の中でのブーム到来と終焉がある。
今、この絵で見るから面白いかどうか、だけで測ると、作品の面白さに辿り着けない。
物語の前提となる設定自体に批判するのも、そこを楽しんでない訳だから、ファンタジー自体の批判に通じていて気の毒。
ボクセキは極上の転生漫画だ
もっとみる▼