明治憲法下にはかん通罪という死罪が女にだけあった。現代に於いても男にとっての女性関係と、女にとっての「おとこ出入り」というのとはダブスタの傾向が残る。こうした不公平の強いギャップの種々は明治以降のもの。この有名なスキャンダルの主人公である
子(「あき」が漢字表記されない場合が!?)は3度結婚をするが、初婚の失敗をただ一方的に責めを負わされたかの子の描写は、女性が何度も結婚するケースが少なくなかった戦国時代その直後の大らかな江戸時代をも顧みるに、なんとも悲壮感が強い。
そんな時代に彼女は精一杯自分の出来ることを探し、自分の居場所を探した。2度目の結婚相手の炭鉱王は型破りな度量の持ち主。社会が彼らを破綻の結果のみにて判断しがちなところを、作者山田先生は、この二人の間に流れていたものについて汲み取っていくのだ。決して、スキャンダルの結末に重きを置くのではなく。だからタイトルも、黒を連想する炭と、白蓮の白の対比。二人が袂を分かち始める頃、子は白蓮と名乗り出す流れ。そして、あの事件後の炭鉱王をして子を罪人にしなかっただけでなく、物語序盤に連なる「踏み台にして自由を得た」結果と評させるのだ。子は初めて恋をして、そして自由を求めて飛び立ったが、家同士の為だけともいえた初婚を経て、2度目の結婚には愛は有ったのだと。3度目で添い遂げた宮崎氏のいう「心安らかな場所を見つけた」事に心底ほっとすると同時に、これ程のあらゆる身の危険をも覚悟して起こした二人の当時の行動力にも驚嘆する。東大で法学を学んだ宮崎氏にとり、結果として何が待っているかを知らなかったはずはないからだ。
物語は相対的に炭鉱王とあき子とのやりとりが比重高く、また、彼女の半生において、2度の実家軟禁という、短くはない残忍な仕打ちには甚だ恐怖する。時代だからと受け流すのは困難な酷さだ。
この作者のハーレクインのコミカライズを幾つか読んだが、日本の時代物ももっと描いて欲しいと思った。背景の絵など資料を丹念に手繰ったことがありあり。当時の炭鉱の様子や歌など巧みに散りばめられて背景描写は臨場感誘う。
東京に生まれ育った私が子供の頃盆踊りといえば、東京音頭、オバQ音頭と並ぶヘビロテ曲が炭坑節。正に作品の舞台の炭鉱のことであったと初めて知った。数十年の時を経て今、その点と点を繋ぐ本作との出会い、一種大きな私の個人的な伏線回収感を嬉しく思う。
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