有名なパティシエが、なぜか、山奥の卵農家の俺を、専属になってくれと頭を下げてきた。
九十九史。名前も、店の菓子も、知らない人間はいない。俺は蓮見陸、二十九歳。名前も卵も、業界の外じゃ誰も覚えていない養鶏農家だ。
その人は、契約の後も、わざわざ農園まで来た。夜明け前から鶏舎の前に突っ立って、餌をやる俺を見て、飯に誘って、俺なんかを抱いた。
理由は、たぶん、物珍しさだ。有名な人の、一時の気まぐれ。飽きたら別の農園に切り替えられる。——俺は、見えなくて構わないつもりだった。ずっと、そのつもりで生きてきた。
だから、先に、専属を降りようとした。
俺は最後まで、知らなかった。あの人が、十年前の雪の未明に、俺に一度だけ、生かされていたことを。
あの人が、それを、俺には、一生、言わないつもりだということを。
本作は宵野いとの「名もなき職人BL」シリーズ。一話完結・どこからでも。