「いろはにこんぺいと」の続編。母親が幼い頃に亡くなったことから、主人公君子(クンちゃん)はもともと男勝りっぽい気性と、思春期ごく手前の難しさと、父親ともベッタリしない親子関係とで、自分の事を打ち解けて接する相手がいない。たった一人、大好きだ
った達クンを持っていったチャコを除いて。日々女性の身体に向かっていく自分をもて余し、ブラジャーの事だって、思いきりよく着用を開始することが出来ない。大人には至極些細なことでも、当人には学校生活にも引っ掛かってくる問題なのだ。
その辺のやり取り、レビューアー華はなさんに同感。
中学生というものを実にヴィヴィッドに表現するなぁと感嘆。いろはにほへとの「と」が取り結んでいるチャコちゃんが大きな一歩を与えてくれて、その、ここんとこの悩みがスルッと解消されたら、さあ次は父親の問題だ。こんがらがっていた元凶が除去されて、もう背中を伸ばして、仲良くしたかった斎藤くんと前を向ける。と、でもその解決策というのはーー。ラブというよりは新しい生活が始まる話。特別感のある人達とのそのローティーン期のストーリー。1983年発表。
「7月ぼくはやさしい」は、今だと潔癖症の読者に煙たがられるかも知れないと案じてしまうような、設定と展開をしている。
くらもち先生がよく手掛けていたバンドもの。ブラックジャックとは、確かに!
私は、少子化社会と、綺麗事を求めすぎる風潮とは同根の問題と考えている。この人と思う人と長続きするのは、厳しい時期を何度も経なければならない。それを乗り越えることもあれば、乗り切るには時期的に既に熱意が枯れてしまっていることもある。より情熱を向けられる魅力を感じる別対象が突如現れることもあるだろう。行き違いを不幸にも経験してしまうカップルを描くことは、リアリティの表現であり、読者への親切でもある。今の漫画は二人がうまくいきすぎているのが多く、主人公の試練は厳しくないことが多い。
ハピエン大好き人間の私が主張するのは矛盾であるが、誰かを捨てる恋愛、(一度は一緒になっても)離別しなければならない恋愛、茨が待つかもしれない選択肢、そんな形のものも描いてくれるのは、本当の作家根性だと思う。好き、という気持ちは社会通念で始まるものでなく理屈でなく道徳でなく、ある種の修羅場物であることを暗に描いているように感じた。読者に媚びていない創作姿勢がとてもいい。1982年発表。
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