水戸黄門





2020年3月13日
まず、第1話。とてもうまくかけてます。そこからプロデューサーまでは良かったですが、この辺で「響が今度は誰に鉄槌を下すのか」というのが楽しみになってきて、水戸黄門を見ているよう。サブタイトルの小説家になる方法とはなんなんだろう。純文学をテーマにしているにしては情緒や文学的示唆などは微塵もない。作者から純文学に対する愛が感じられない。
エキセントリックなキャラ達が迷走していくが、なぜか響を立てることだけはちゃんとやる違和感。
芥川と直木を取る天才のわりには語彙が普通。暴力に頼りまくるのが一本調子。後半になるにつれテンプレ化。パターン化の嵐。
作者は圧倒的な天才を描きたいと言ってたけどそんな描写はない。芥川と直木の同時受賞という結果の提示ではなくきちんと描写すべき。ほとんどが他者からの評価で、読者に「これは天才だ」と思わせるエピソードがない。
天才少女ということであれば曽田正人の昴の主人公、宮本すばるのほうが圧倒的に説得力がある。
鮎喰響と宮本すばるのどちらが天才かと言われたら100:0で宮本すばるだ。
作者が女子高生の皮を被ってやりたい放題言いたい放題しているようにしか見えず、展開もご都合主義と陳腐さが後半になるにつれ目立ってくる。作者が響というキャラクターを好きなのは伝わってくる。当然だろう。自分なのだから。ナルシズムを感じる。
主人公や登場人物の過剰に強い言動に普段は強い言動に走れないだろう作者のコンプレックスを感じる。だが、それは多くの人が抱いている感覚であるから読者を引き付ける。そして、感情のままに暴れられない自分の代わりに響が暴れることでカタルシスが生まれる。この作品の面白さはここにある。しかし、そんな根暗な楽しみかたをしている自分のちっぽけさにがっくりしてしまう。
また、作者の価値観はうまく隠しつつキャラに語らせるのが腕だが、それがない。
感情的で乱暴な物言いが心に来ることもあるがほとんどのキャラがそんな表現しかできないのは違和感。人間を描けていない。そもそも台詞に頼りすぎ。絵が下手でも漫画なのだから絵で語って欲しい。ここまで偏っていては得意の台詞を活かしたのではなく、台詞に逃げただけだ。
映画化で騒がれたが、読者を引き込むのが上手い以外は誉めるところの無い凡作。天才は変わり者という点がそもそも使い古された陳腐なテンプレートだ。
所詮、凡才には天才は描けない。
エキセントリックなキャラ達が迷走していくが、なぜか響を立てることだけはちゃんとやる違和感。
芥川と直木を取る天才のわりには語彙が普通。暴力に頼りまくるのが一本調子。後半になるにつれテンプレ化。パターン化の嵐。
作者は圧倒的な天才を描きたいと言ってたけどそんな描写はない。芥川と直木の同時受賞という結果の提示ではなくきちんと描写すべき。ほとんどが他者からの評価で、読者に「これは天才だ」と思わせるエピソードがない。
天才少女ということであれば曽田正人の昴の主人公、宮本すばるのほうが圧倒的に説得力がある。
鮎喰響と宮本すばるのどちらが天才かと言われたら100:0で宮本すばるだ。
作者が女子高生の皮を被ってやりたい放題言いたい放題しているようにしか見えず、展開もご都合主義と陳腐さが後半になるにつれ目立ってくる。作者が響というキャラクターを好きなのは伝わってくる。当然だろう。自分なのだから。ナルシズムを感じる。
主人公や登場人物の過剰に強い言動に普段は強い言動に走れないだろう作者のコンプレックスを感じる。だが、それは多くの人が抱いている感覚であるから読者を引き付ける。そして、感情のままに暴れられない自分の代わりに響が暴れることでカタルシスが生まれる。この作品の面白さはここにある。しかし、そんな根暗な楽しみかたをしている自分のちっぽけさにがっくりしてしまう。
また、作者の価値観はうまく隠しつつキャラに語らせるのが腕だが、それがない。
感情的で乱暴な物言いが心に来ることもあるがほとんどのキャラがそんな表現しかできないのは違和感。人間を描けていない。そもそも台詞に頼りすぎ。絵が下手でも漫画なのだから絵で語って欲しい。ここまで偏っていては得意の台詞を活かしたのではなく、台詞に逃げただけだ。
映画化で騒がれたが、読者を引き込むのが上手い以外は誉めるところの無い凡作。天才は変わり者という点がそもそも使い古された陳腐なテンプレートだ。
所詮、凡才には天才は描けない。

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