このレビューはネタバレを含みます▼
小説・映画・マンガ…を問わず、これほど魂を揺さぶられる物語に出会えたのは、何年ぶりだろう。素晴らしいの一言。
物語の骨格は、ある修道会に育ての母親を殺された少女の復讐。
骨格はそれだけだが、そこに、哲学的闘争とも言うべきテーマが幾重にも折り重なる。
復讐の対象となる修道会の側にも正義があり、ただその正義は、個々人の知と意思を奪うことと引き替えに成り立つ社会全体の幸福ゆえに、人間の自由と意思を大切にしたいという主人公の正義と真っ向からぶつかる。功利的善(ベンサム)と絶対的善(カント)の闘い。前者があるからこそ、後者の正義を信じる主人公の信念が際立つ。
自分で考え続けること。自分で決めること。そして、決めたことに責任をもつこと。
人間らしく生きるということは、それを不断に実行し続けるということ。
それらを奪うものを台頭させてはならないということ。
時代は16世紀、人身売買と魔女狩りと異端弾圧と迷信と妄信がいまだ猛威を振るう中世末期の神聖ローマ帝国(現ドイツ)。その人里離れた修道院から、物語の舞台はほとんど一歩も出ることはない。
こんな舞台の上で、多くの少女たちは自ら考えることを捨て、「神への信仰」のもとに従順で盲目的な、つまり無思考的で何も言わず何も考えない、自ら決断しない人間へと変わっていく。それが、生きる道だから。自ら考え決定し、自ら動くことは神への反逆と見なされ、処刑されてしまうから。そんな痛い目にあわされるのはイヤだから。考えることを捨てたほうが楽だから。考える意思を捨てたほうが楽に生きられるから。
この状況は、現代の私たちと、なにがちがう?
400年たっても、国や文化が違っても、主人公が戦った状況は、現代の私たちと何も変わらないではないか! 主人公がつぶやくように、「心はすぐに眠ってしまう」「天国から逃げるのは、地獄から逃げるよりも、むずかしい」…その通りなのだ、現代も。
神であれ宗教であれ、イデオロギーであれ政治であれ、社長だろうと上司だろうと、「ネットの多数者」だろうがTV識者だろうが、私という人間の自由な思考を支配し奪おうとする者に、自分の手綱を自ら預けてしまってはならない。そうしたほうが楽だったとしても。
流されず妄信せず、自ら不断に考え続けること、人間らしく生きたければその努力を捨ててはいけない。主人公の生きざまがそれを教えてくれる。