意地っ張り王女様、不自由な環境が彼女を形作ったところがある。
女の子に設けられている制限のあれこれが、よかれと思ってのことなのか、理不尽な制限なのか、という設定が、読み手は我が身の周りのジェンダー問題を連想させ、社会や会社などでの生きにくさに通じて、共感を誘う。階級制度も、恐らくは原作ベースの読者層を抱える西洋も平等を唱えながらもなかなか無くなっていかない階級差意識とダブらせて読む人は少なくないだろう。
王族の夢物語よりも、等身大の女性の実社会のもがきのように感じることが出来る。兄には出来て自分にはダメと、合理性のないしきたりに縛られる昔ながらの国の仕組みの内部に、さながら生き埋めにされているかのよう。悔しさの共有が出来る。彼女は馬と過ごすひとときだけが本来の自分になれる時。
男装することで自分を解放させていても、彼女は鬱屈をも抱えていたが、ここに彼女を掬い上げる出会い。思うようにやらせてはもらえない日々から引っ張り出してもらう、ある種のシンデレラストーリー。貧しさや冷たい家族設定の代わりに、豊かさはあるが自由を求めて自称「野良犬」のもとへ。
「俺が野良犬でもどこの誰でも」、ヒロインは彼を好きになるという、私の好きなタイプのストーリー。
HQらしく彼が迫ってヒロインにキスをしてくるので、ワイルドな男性臭さが示されており、じゃじゃ馬の中に眠っていた女心を呼び覚ます、キスはスイッチになっている。
その意味で邦題は適合。私はヒロインのクライマックスの行動力に拍手を送りたいし、その題意の原題の方が、彼がその上を行く行動力と寄せのグイ感を映して合っていると思う。
男勝り気質だが恋すれば乙女、というところは視覚で楽しみたかった、というのはある。
しかし、これまでの自分に訣別が出来て、本当に自分を解放させしがらみから自由となって夢を叶えらえたのはこの組み合わせだから。この二人だからこそ。。
本作にも、麻生先生のミシェル達、湊先生のローヌ大公達が、ひとコマ出演。茶目っ気に笑えた。
最初に読んだ麻生先生の中にもあったのだろうか?
覚えがないのが、とても残念だ。
意地の腰砕けの恋するヒロインがかわいくて、そして、彼の心を測りかねての一晩のエピソードが良かった。
ミス・シンディ、終始貴重な助言者、大切な側近だったのに二人の近さはおわってしまった、ということなのか。