同じジュリア・ジャスティス氏の手になる「意外な求婚者」が女性版、この「野性の花嫁」は男性版、といった趣。決まりかけてた話を覆すのは、その状況自体を拒絶感持つ人が世の中に一定数存在するため、ヒロインヘレナに共感出来ない潜在的読者への納得を少しでも集めなくてはならない。そこでハーレクインは相手に問題があるから、という理由作りのシーンを何度か用意する。
端的にいえば「愛無き結婚」か、「愛有る結婚」か、の問題だが、巷間では、芸能ニュース論調の潔癖感にみられるように、年々横取り構図が、愛の勝利と言えなくなってきている。それでも、婚約解消までの経緯はドラマになりやすくロマンスの一類型で、感情優先がロマンチック気分を駆り立てる。
当人たちより親や親族、所属階級のしがらみに泣かされた時代の方が、好きな者同士で結婚させるべきとの応援気分を作りやすい。
この話、それらを考慮しても、慣習や雁字搦めのしきたりを飛び出すヒロインの「野性」ぶり描写で、あれやこれやを我慢しなくてはならなかった前近代的女性観にまつわる閉塞性を振り払おうとする問題提起が小気味良い。
それにお金持ち男性が多いハーレクイン世界で経済的に女性が依存していないのもまた私は歓迎。
コミックよりも原作は奔放なキャラを示すエピソードを幾つも準備している。「じっと座っているときでさえ動いているように見える」存在感。「野性の花嫁」たる裏付けはしかしヒロインに「冒険」させるという構造まで上述の「意外な求婚者」辺りを彷彿。
饒舌な表現によって二人それぞれの苦悩は説明充分。
境遇に胸の重く痛むものがあるところ、物語が進むほどその枷が軽くなり、暗く歪んだ牢獄の物語の出発点から、太陽の陽射しも強いキラキラの南国まで行くなか、素敵なはずの、ハンサムで評判もいいはずのアダムが、抑制的で高潔であろうとしてた前半からどんどん小さく見えてしまった。ヘレナをスーパーレディにしたかった設定が余計アダムを多少間抜けにしてしまい、妹思いで家族を大切にし、家の名誉の為の「犠牲」的行為が結果的に梯子を外されることになって、読んでいて少々辛かった。
22、40%の頁の、「ナンチョン」を辞書で当たりたいがまだたどれない。38%の「今夜」は、本当に「今夜」なのか?
コミックで使われた「アテネ」の代わりに、ヘレナを表す言葉は「ワルキューレ」だった。「ワルキューレ」!?