長い目で見ると主人公迷って迷って・・がグダグダなのは、掲載の事情があろうし、他の同時期掲載作品との人気の関係でもあろうし、作家お一人に、その構成力の全責任を負わせられない。
その時にはきっと当人だけで決められない方針等があって、恐らくその中での制作が求められていたということもあっただろうから。でないと、このように、二人が結ばれそうで結ばれない、そこにお色気場面を用意し、毎回気を持たせて続きはまたお楽しみに~、をやり続けられない。掲載が延ばされる度の延々とやっていたのだろう。
東家の蒼龍と、西家の白虎、惹かれあってしまった二人の、ことの成り行きを見守り、そして彼らの種族の生き残りをかけた闘いを、読み手はただ見届けることしかできない。ただ、日本古来の伝説も、鬼は人を食い、簡単に死ぬことはない。この基本線は鬼の出てくる伝承にお約束ごとにあるので、作者のストーリー固有のご都合主義ではない。この手の話は下地に用いているものがキチンとあって、忠実なだけ。とやかくいえない。また、私の好みでない少年・青年向け領域の人気作には、よりグロな世界が構築されており、いわば対照的な、篠原先生作品では、私の好む、恋愛が主軸に回る。鬼も美しい。ひたすら、主人公蒼子と、敵対勢力の長である彬との、ふたりの恋の行方をため息と共に見届けるのだ。
中華圏はマレーシアだったか、台湾だったか、四家の鬼の名に使われた蒼龍、白虎を、寺の中に見つけて、暫く読んでないな、としきりと読みたくなったものだ。
そんなとき、彬がカッコいいと思っているの
彬を見たくて読み返したくなっているのだ。
しかし、いざ、読み返して篠原作品に凄みを感じるのは、鬼の正体を現す、封印の解けたシーンだったり、「恍惚のうちに、生命も魂もうばわれる」シーンだったりする。蒼子に鬼という生き物の美しさ妖しさを持たせている漫画の着眼点に圧倒される。彼女の目覚めの圧巻ぶりはゾクッとするほどだ。その彼女に参ってしまう彬の描写にやられてしまうのだ。
そして、二人の色気描写は、彬が蒼子に生気を与えるために身を差し出すシーンだったりする。また、スペクタル入って圧倒的なスケールの天変地異描写に震えるのだ。そのさなかにも愛し合う男女がいる、そんな、明日をも知れぬ危機の迫る時にも(こそ?)、時を惜しむように互いを想う二人に、ドラマを感じてしまうのだ。