主人公かな子の日々、キャラが暴走気味なのはそこは漫画のご愛嬌という事で。最初椎名軽穂先生の「君に届け」(平成17年,2005)を僅かに連想した。本作は平成10年頃(1998)連載開始らしい。
童話「黄金のガチョウ」だったかな、も連想する。
だがそこは年頃の少年少女の言動も思考回路も、驚くべきデリケートな描写力を誇る望月先生節が冴え渡る。
「特にネガティブな妄想激しいあいつには!」という瑛士のコマのセリフ外の書き込みはクスリとした。
まだ完読していないが、寡作の望月先生作品は、今回のシーモア特集に乗って楽しんでいたら、もう寂しいことに、そろそろ全作読破が真近に迫ってきた。もう少し楽しみたいので、それに、本作の二巻目以降は特集の恩恵も外れているしで、のんびり読み通したいと思っている。気が逸る展開のものではない。
小中時代のあの感じ、私にはノスタルジーを覚えるほど楽しいものではなかったが、どこか想像可能な世界で、漫画ノスタルジー世界ではもがくキャラが救われることをただ願って。
私自身「お姉さんなんだから我慢しなさい」と、今思い返しても理不尽な我慢は確かに強要された幼少期時代が甦る(その上、何度もその発言した当人は、そんな事は言ったことがないと、全く記憶していない。思春期に二次被害もあり、追体験的な読みをついついしてしまう箇所でもある。)。
望月先生の描かれるキャラが見せてくれるナイーブさに、遠くなった胸の痛みを思い起こさせる力があるのは、こうした何気ないコマに、キャラの異なる主人公のどこかの一側面に共感を抱かせられる小エピソードの断片が、ふと入り込むからなのだろう。
---完読しての追記。
ノドアメイカガ迄、各巻モチカリワールド全開。
特に3巻目、麗子のターンは4巻構成での配分として、味のバリエーションが効いていた。
しかも、瑛士に振ってと詰め寄る場面、その後を省く巧みさ。こういう手法が、行間ならぬコマ間への想像を拡げさせて、相当いいと思う。
が、こういうのを、そこ説明してよ、言葉にしてよ、絵で垣間見たい、との声を持つ人が今は意にそわぬ話を低評価する側に回ると、なんでも伝えるのが読者サービスという圧力をかけられて、作者の創作の自由が減っている、寧ろ奪われてきている気もする。望む展開がないからなんて理由なんて!?、
読み手の気持ちは大切だが、迎合はして欲しくない。
望月先生の良さはそこ。