家族とは、血の繋がりをいうのではない。そこにあるのはなんなのか。なにで結ばれたものを家族というのだろう。
子どもは、それでも親を本当は温かい居場所のベースとして欲していただろう。
それに応えなかった、血の繋がりだけで都合のいいときだけ家族ぶる人たちと、それと対照的に、血の繋がりなどなくて家族として情を通わせて結びつく人たち。
ヒロインにとり、リビー、クレア、アシュリーは家族。
そうして彼も、僕も家族になります宣言だ。
それが家族のすることですかと問い質したい事をしでかす「親たち」の横暴。
私は昭和の時代から海外の子どもへの援助を続けているが、どこにどんな生育環境に、生まれ出たとしても、人は一人一人、ほんとうは可能性を持つ。隠れた才能だってあるかもしれない。生物学上の親は、子どもを支配しようとし謝った方向に行っていることもあることを訴える、辛口ファミリードラマ要素入り。過去アメリカは養子を引き取ることが実際多く、そうした、実子養子取り混ぜた家族写真を目にする度、ちょっと感動したものだが、その系譜に連なる様なリビーさん、話中で既に存命ではなかったけれど、生き仏のようだ。宝石箱のエピソードなど、 HQというよりもはやヒューマンドラマ。
彼の家族もまた歪んでいたことを、ヒロインは自分がいっぱいいっぱいに生きてきて長く気付けなかった。
暗く孤独だった魂同士が互いにひかれて幼い恋がはじまって、空白期を挟み大人になっていた。
二人の関係は家庭にも似て、終盤「居場所」と表現される。
動かしたい彼と動きたくないヒロイン、結婚を決めるときは、双方から歩み寄った。
この話、ひとえに彼の積極性、行動力にかかっている。
汐見先生の描く男性、もう少しオーラがあったら、と思う。
陳腐過ぎる邦題に、毎度のことながらハーレクイン(ノベル)が三文小説扱いから抜け出せない理由があると思う。
故に、コミックスまで割を食って、本当に気の毒でならない。