先生の創作は、いろいろなタイプの十代の子の精神構造をとことん表すことに作品の魅力を放つ。成長途上のその頃の、いびつで、見えているようで見えてない、かといって、大人が見ないところに感受性がきくような、過程。不確かでいて一方向に固まりやすいキライもあり、流されやすくもあり、ある種の子供達にはひどく生き辛くもあり。親その他の大人の環境に左右されて、自分の決定力は最後までは持てないのに、自分の人生の落とし前を自分で負わなければならない部分もあって。
収録作品には絵柄が丸みを帯びているのもあり、こんな絵も描けるのだと判った。スイッチ、チョコレート ダイアリイ、鍵、Wの庭園、etc.、と読み進めて、これが画風と感じるものがあったが、かなりいい意味で私の認識は拡がった。といって、下地に思っていたこれぞ望月先生画風には、その個性観に繋がって、望月先生ワールドの重要な一角を成していたので、寂しさもある。
「境界」、「二人の距離」は人物絵など全く別人の手に因るように感じるほど。吉住渉先生をなぜだか思い出した。
そんなことで行けば、望月先生が、全く別人のペンネームで、別趣向の作品を手掛けることだって期待したい。事実他の先生でたまに見かけること、先生も脱先生ワールドしておられたりして。(追記:結婚し育児中らしい)
先生の作品は、微妙にこちらの現実と離れている創作世界のこと、の中に、むしろ、奇妙にキャラの精神構造が伝わってくる虚構の中のリアルを感じる。
独特の導入で引っ張り込まされているのだろう。
始まりも、終わりも、各作品変化球、そして何より一筋縄ではない展開も、妙な緊張感が静かにあるとか、ヒヤヒヤする「子ども」の暴走があるとか、漠然とした不条理や寂寥感が漂うだとか、明るく元気なところはない。といって、作者は根暗ではないらしく、吹き出しの外の手書きは、膝カックンものに感じる位、カラッとしていたりする。
こういう作品がなかなか見当たらない今というのは、多様性の要を唱えながらも、社会全体が一方向以外の物事に不寛容になっている兆しなのでは、とも思う。
漫画雑誌をパラリとめくると、同じようなテイストの絵と流行りの××物オンパレードという事がよくあるが、同好の士だけのためのものでは、漫画の潜在的な魅力に気づけないと感じる。
私もお弁当にチョークの粉をたっぷり乗せられた黒過去を思い出させられた。