直前まで読んでいた藤子・F・不二雄先生の「T・P ぼん」のあとがきに導かれてやって来た。大好きだった石ノ森章太郎先生原作アニメの009を読んでみたいけれどなんとなく機会が無く今日に至る。こっちの書名を知って飛び乗ってきた。
時間を自由に往き来するまんが。何を描いてるのか、もだが、どう描きたいのか?、問いかけもすることになる作品だった。
恐竜、鯉のぼり、…。
コマまんががあるかと思えば、1頁1コマの絵も。精緻な描き分けと、お馴染みのデフォルメのキャラの協働。(ギョロ目ひとつが大きすぎる、と、何度も感じてしまう。)
取り敢えず、頭の中を読もうとするのではなくて、作者が生み出してきたものをそのまま受け取る作業。
セリフの無いコマが連続する。
これは石ノ森章太郎先生作品を相当読み込んでこないと、辿り着けない気がしてきた。
全2巻。手塚治虫先生の雑誌に掲載されたという。前衛的、抽象的?。なのに具体的でもあり説明的でもある。写実的表現と、漫画的削ぎ落としとが入り乱れている。
取り敢えず眺めてる。考える前に読んでる。
恐竜それぞれを、図鑑の頁を開くが如く観察しては、意図を図りかねて唸っている。
そうか童話か!童話…ね。でも、そうなの?
鯉のぼりはそうだね。
本当につかみどころがありません。
自由とは?石ノ森先生の自由論。表現の世界の前線に居る方としての考え方。それが、傍らで原稿を破く者を、何かにいろいろと変えて象徴させて考察させられる。
読み手を選んでいるようなフシがあり、漫画読みが値踏みされてる感覚。突き放しているようで、内面解説もしている。一般大衆に迎合してないのは明らかであり、分かり易さを期待しない方がいい。ある意味お互いが試しあいをおこない、私には力量が足りなかった。貝殻ヒレヨウラクの音を聞くシーンは先生の繊細な感性が私の感覚に訴えるものがあって、だから石ノ森先生先生作品がビジュアル的にも、私に印象付けてくるのはそういうところなのか、と、合点がいった。
秋が来て冬が来る。経験・インプットは大事。
ジュンとは、先生にとってのまんがそのものであり、子どもであり、ツールであり、表現手段であり、源泉、etc.そんな感じだろうか?
少女漫画では、ポエムと絵の2,3頁物が昔流行ったが、その石ノ森先生版にも見える。そもそも少女漫画好みの絵。
コミカルなものもあるが、大体は寂寥感に圧倒される。