血縁。その関係を切り捨てるのもつなぎ続けるのも辛い複雑な思いはある。その理由は「理解」の有無。親子との理解、夫婦との理解がこじれて不幸が波及する。イーサンの場合は理解しあえない両親による波及。親の庇護が必要な子供だったイーサンに妹を思いやるためには「その愛情」の見本がなければ「思いやり」は培われないわけで、彼のせいではない。そのことへの気付きがなされなかったのは、寄宿舎という環境と、医師を目指していたという多忙さにあったと考えられる。イーサンは「切り捨てた」と言っているが「考えないようにしていた」が正解だろう。そこへの妹からの手紙によって「考えない」を「考える」にシフトしたわけだ。人はそれぞれ自分自身の思惑に沿って生きていくわけだから「誰だろうと口出しはできない」を言い訳にして妹の素行に目を閉じ耳をふさぎ己の道のみに専念することにしたのだ。がしかし、縁があるなら何かの時には頼りたい存在があり、頼られる存在でありたいと希望するものではないだろうか。そうはいっても現実社会では血縁といえど、自己の生活第一であり助けることは難しい、だからこそ こんな理想の島での生活は輝いて見える。また、自分の薄汚さが際立ってくるのだ。