僕が僕を忘れる前に
」のレビュー

僕が僕を忘れる前に

一百海諭

全てを語らないことで一層強まる余韻

ネタバレ
2024年4月6日
このレビューはネタバレを含みます▼ 全103頁の中編。ある種のタイムトラベル的ストーリー。舞台は満州事変前夜の昭和恐慌後期の東京。実家の商店の命運をかけて商品開発にいそしむ実と、農村不況で押し出されるように上京し、実の商店で働くことになった三郎の切ない恋が、当時の時代風俗を背景に、鮮やかに丁寧に描かれています。彼らの仲は、2人が思ってもいなかったアクシデントに見舞われ、それにより前述の時間移動が始まることに。状況設定や2人の思いが深まっていく過程については実に細やかに触れているのに、終わり方は説明不足で唐突過ぎる印象もあり、もう少し2人の幸せな時間や、願わくばエロい情景も…と思わないでもありません。それでも、この作品はこれで十分完結しているように思います。というのも、本作品での2人の日常会話が「君、〜したまえ」「君が〜するのかね」などというように、当時の話し言葉を正しく踏襲して実に美しかったり、背景も含めた作画がこの時代に適合してどこかクラシックだったりと、元々、本作品は戦前の日本の凛とした品の良さを醸し出しています。主人公2人からして、本来はどちらも決してセクシーなタイプではありません。しかし、今よりずっと禁欲的な時代、制約多き社会の中で社会人としてしっかり自分を律して生きている一方で、思いのままに気持ちを大っぴらにしたりはせずに、お互いひそやかに相手を思い合っているその姿が、次第に魅力的で共感できるものになっていきます。そのような背景、人物設定のせいもあり、「秘すれば花」ではありませんが、何もかも全てを説明しきったりさらけ出したりせず、印象的な一言だけの唐突な幕引きが想像力をかき立て、切ない余韻が一層心に残るように思われました。BLのLにはこういう表し方もある。そういう意味では、行間を読ませて後は読者に結論を委ねる小説の様式に近い作品かも知れません。ただ一つだけ、最初と最後のプチ・オカルト風味、ちょっとこじつけすぎて私的には無くても良かったかなと💦。あくまで好みの問題ですが。ちなみにこの作者様、他作品では全くクラシカルな絵柄だとは思いませんでした。状況設定次第で雰囲気までがらりと変える。凄いです。
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