頑なだった侯爵の心の扉。愛に振り回される男の姿などは情けないものとして、結婚して女性と睦まじく過ごす友人に対してさえ快く思えなかった彼は、私の子供の頃の演歌の世界の男の様なタイプだ。愛だの恋だの、自分は振り切ってもっと違う頂を目指す、と、敢えて背を向ける痩せ我慢に滑稽な正当化、そして自己陶酔。女から見れば勇気がないと思われても仕方がない。
ただ、このストーリー、コミカライズで過激描写しないが、実は如何ようにもレディコミ風に出来たろうと思うと、尾形先生の手になったことにホッとする。クオリティが踏み留まった感がある。
意地を張るのは可愛くないと思っている読者も多いみたいだが、魅力に引き摺られそうになってる自分を、躍起にセーブする無駄な頑張りが、この侯爵が降参するときのギャップとしてこの話のメインテーマを形づくる話なので、そこを否定すると、話のコンセプトを覆すことになるだろう。
ゴロつき出身のトムオヤジさんも、彼でなくては女二人だけの館の危なっかしい邸宅の用心棒になれなかったろうし、彼の功績は姉妹の心強い精神的保護者であり、ヤワな白い手袋の似合うガリガリ体型の家の中に籠っていた者では務まらなかった。
我儘が過ぎる妹には、読み手のこちらは何度も腹立たしい思いを味わされたが、もっと悪いタカリ屋が登場していつの間にか矛先が移らされた。
彼は素直でない。
ヒロインも彼に自分の本当の感情は伝えていない。
ある意味ありのまま、自分に素直なのは妹なのだから、このストーリー、まるで、幸せとは素直になった者が手中に出来るもの、と言っているようだ。
何でヒロインにそこまでしてやるのか、と、問われたとき、侯爵は自分で答えを見つけられないので、結婚式の日の直後、舞台がロンドンに変わる直前の109頁のコマがあって説明力が高まったと思う。葛藤するでもない、なんとも自分で解読できないような表情の横顔。
山岸凉子先生が作品「アラベスク」の中で、愛してるときと憎んでるときの顔が一緒だった女の話で表現されていた、何を思っているかを絵で語らせないのに、怒りとも思考中とも見える目に、彼の自分で答えの見つからない複雑な胸中を思った。
クライマックスが、物語冒頭と対を成しており、筋運びも引き締まっている。原作者もまたベテラン作家なのか構成が巧み。浪花節ではなく、膝を折り愛を乞うてザ・HQエンド。