蘭と葵
」のレビュー

蘭と葵

上田倫子

初恋に生涯を捧げた将軍

ネタバレ
2021年3月28日
このレビューはネタバレを含みます▼ 蘭と葵。
人間臭くも、感嘆する人物が多く出てくる作品だ。漫画を読んでて久しぶりにちょっとだけマジ泣きした。生きる哀しさとか苦しさとか孤独とか人生そのものが持つ美しさとかひっくるめると、到底1000字以内では書ききれない。
例えば帝。彼の生涯はこの一語に語られている。「御所に戻ったら、皆が望む帝を演じたる』。聡明ゆえに、彼は自らに求められる役割を知っており、優しさ故にその役を拒む事が出来ない。人の美質とも言える心優しさ、聡明さが苦しみを生む皮肉。
それは家光にしても同様だ。『私の絵は下手だ。だが私が将軍だから、皆本当の事は言わぬ』。権力にまつろう人間の心を彼は知っている。権力という豪奢な鎧が孤独を深め、自由を奪い、真実から視界を遮る事を知っている。これを反転させたのが国松だ。母親の過剰な偏愛に目隠しをされ、自意識だけがおかしな方向に成長した。遂には彼は母の供する限られた世界から抜け出せないまま、外の世界を知る事なく妄執の中で最期を迎える。往々に、権力を持つ程、それに比例して悲劇の度合いも深まる。国松から理不尽にも手打ちにされた近臣達は被害者であるが、国松自身もまた母の偏執的な妄念と愛着の被害者だ。この世界には完全完璧な自称などない。誰もが加害者であり被害者の側面を持っている。
ヒロインとヒーローが目に見える形で結ばれない本作は、少女漫画的にはアンハッピーエンドに分類されるのかも知れない。が、家光が『蘭の心に沿う生き方』を人生のある地点からその後生涯に亘って貫いた事を見る限り、やはりこれはハッピーエンドなのだろう。これは恋によって拡大・成長していく人間の可能性を描いた作品だ。
なお、蘭は疱瘡に倒れた家光の為、伊賀へ薬を求めて走った姿を最後に作中からはほとんど消える。代わって、更に歳を重ねたある日、家光の前にが五郎丸と名乗る少年が現れる。蘭と一厳の面影を宿し才気溢れる五郎丸を見て、家光は感極まって涙を溢す。「一厳と蘭によく似ている」という一言に、彼がどれほど蘭を深く愛していたかが表れている。その後の物語は、さながら走馬灯のような描写で過ぎていく。
細かい点を挙げれば気になる箇所は幾つかあるが、そうした事を交えても『蘭と葵』はとても感慨深く美しい作品だ。人の生と死の間にある抒情をこれほど優しく繊細かつ清々しい息遣いで表現出来るのは、上田倫子さんだからこその感性だろう。
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