アレキサンドライト
」のレビュー

アレキサンドライト

山藍紫姫子

“両義性” に誘(いざな)われる恍惚

2021年10月12日
(作品紹介と幾つかのレビューは読後の閲覧を推奨します) 672ページ。

22歳の美しきシュリル聖将軍と、彼を捕らえた隣国のマクシミリアン大佐、そして自国のラモン戦将軍。因縁と謀略、命をかけた秘密と引き換えの服従。憎しみという名の執着。愛という名の凌虐。降りしきる雪の中を疾走し求めた、トライアングルの決着は……?

巨匠・山藍紫姫子(やまあいしきこ)先生による耽美ロマン小説。
耽美という言葉はとかくイメージ優先で使われている気がしてならない。“うっとりする美しさ” “危うく儚い束の間の美” “神聖で侵(冒)しがたい高貴さ” の意味で使う人もいれば、“禁忌/禁断/背徳” “過剰なほど華美な倒錯的エロス” と受け取る人もいる。だが本来はもっと振り切った定義を持つ。
耽美主義は真・善・美の均衡を崩し、美しいことが最高で論理的賢さ(真) や倫理的正しさ(善) を無価値とみなす。自然より人工、精神性より感覚と情緒、内容よりも形式、写実より虚構を好み、悪徳の中にすら美を見出だし、既成概念や道徳を拒絶する。
極論すれば、誰を傷つけ苦しめようが (いっそ誰が死のうが) そこに自分の求める美さえあればよしとするので、物語は自ずとメリバになりがちだし主役たちの中身は悲しいほど愚かか軽薄、自己愛的で自己中心的、容姿だけが破滅的に美しいのが相場だ。愛し合う自分たち以外は眼中にないので、当然のように周囲から憎まれ排除されるが、当人らは何ら痛痒を感じない(『枯葉の寝床』のギドウとレオのように)。
この視点で見る時、この物語は耽美とは言えない。

しかし世界5大宝石のひとつ*で太陽光の下では深緑、白熱灯や蝋燭の下では赤~紫に見え「昼のエメラルド夜のルビー」と喩えられるアレキサンドライトという作品名…この “あれもこれも” の“両義性” (“あれかこれか” の二者択一でない) が答えをくれる。
それはまず2つの意味でシュリルの比類なき魅力を指し、同時に人の感情の暗喩でもある。人は人に対し “愛か憎しみか” より “愛してもいるし憎んでもいる” という思いを抱くものであると。
そして抑制された心情描写と過剰なほど美しく残酷なエロスの対比が、行間を読む読み手を耽美の恍惚へ誘い、知らしめる。見えるものと見えないものを同時に見つめようとする心こそが耽美なのだと。


*ダイヤモンド/ルビー/サファイア/エメラルドに並ぶ5番目に翡翠や真珠をあげる説も
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