このレビューはネタバレを含みます▼
この作品…読むのに胆力を要します。
ずいぶん前に読んでおいてずっとレビューができなかった。
秀作にも関わらずこのレビューのすくなさよ…わたしのように気持ちを言語化できずにいる読者も多いのでは。
・身に覚えのない性犯罪により冤罪で投獄された元神父秋鷹(不幸顔白髪美人受)
・秋鷹に罪をなすりつけておきながら平然と彼の前に姿を現し愛を囁く、現役神父の木場(サイコ気味甘いマスク攻)
・木場の人生を滅茶苦茶にした毒両親(ペド父と無関心母)
・木場に56された被害者とその遺族
・事件に関わりのない傍観者
以上、どの登場人物の肩を持つかでこの物語の印象はものすごく変わってくる。
その上で虫飼先生は誰の肩も持たず神の視点でこの物語を紡がねばならないから、だからああいう後日談に仕上がったんじゃないかと考える。
自分を陥れた木場を赦し導こうとさえする秋鷹と、贖罪の日々を送る木場であったならハッピーエンドチャンチャン♪で終われるかといったら、そうは問屋がおろさない…
木場が本来両親に向けるべき憤怒を関係のない第三者に向けてしまった時点で、縁は複雑に絡み合ってしまったから。
この社会に秋鷹と木場、たった2人だけで生きているわけではないので、死に至らしめてしまった第三者とその縁者、司法、事件を知る不特定多数の動向は容赦なく2人の世界にヒビを入れる。甘い夢を見続けることを許してはくれない。
木場もそれがわかっていたから「自首しておいてよかった(単話・後日談)」と思ったのだろうし、自首をしないままこの結末を迎えていたら、そこに倒れるのは木場ではなかったのだから…もしかしたら最後の玄関を照らす太陽の描写は、1番大切な人をせめて守れた安堵感と、自分の魂を救えた達成感を表していたりして。
なんらかの加害者は元被害者でもあるし、被害者はいずれ加害者にもなりかねない。
たくさんの無関心や心の弱さが最終的に1番弱い子供へと向うこの構図。「穢れのない人」というのは特定の誰かを指しているわけではなく、そもそもそんな人間はこの世に存在しないというメッセージなのかも。
※キリスト教では3種類の愛があるとされ、実際に「エロス(欲)」「フィリア(友愛)」「アガペー(エロスとは相反するもの)」なるものがあったとして…
秋鷹と木場は、まさにこの順で結びつきを強くしていった感がある。