同じタイミングで好きな人が自分を好きでいてくれるのは、とても運の良いことだと思います。
しかし相思相愛だとしても、好きの大きさやその形が完全に一致することなど有り得ないとも思っています。
相手の「好き」が自分とは違うことにモヤモヤして、焦ったりもがいたり試したり、悩み苦しむ。それがジョゼ。とても解りやすいです。
対する天羽は、「好き」が溢れてアウトプットせずにはいられない。ジョゼを思いジョゼを見つめジョゼ無くしては息もできない程なのに、傍から見れば自己完結しているようです。それが太陽を見るように、神を思うように、与えられるモノだけを後生大事に慈しみ愛するのが信仰じみているのかなと感じました。
作者さまのおっしゃる「信仰よりも難しいこと」って何だろ?
自分の中で偽物(欲望を叶える対象者?色を孕んだ偶像?ここを想像するの楽しい!)を創造し続ける幸福を捨てて、太陽と共に歩き続けることでしょうか?
歪んだ気持ちを曝け出し(それこそ告解のように)実は既に赦しを得ていたことを自覚し、神ではなく人として認めることでしょうか?
今作品を読むと、愛することの形が多種多様、人の数ほど有るのだろうと考えてしまいます。
それでも共に居たいと自らの形を変えることこそが尊いのだと思いました。