フォロー

0

総レビュー数

27

いいねGET

14

いいね

0

レビュー

今月(4月1日~4月30日)

レビュー数0

いいねGET0

シーモア島
ベストアンサー0
いいね0
投稿レビュー
  • ギャンブルレーサー

    田中誠

    博打は自分への賭け
    2008年3月23日
    ギャンブル、即ち、賭けごと、即ち、博打だ。競馬・競輪・ボートなど、レースそのものはスポーツだが、それに賭けることは博打以外なにものでもない。しかしその博打がまた面白いのだ。こんな昔の言葉を思い出した「バクチ、色より三分濃い」つまり、昔の人は色街で遊ぶよりも面白いと感じていたようだ。本誌にあるように、今でも人はセッセと足を運んでいるが。その博打で財を失い、路頭に迷う人も数多く居よう。「博打、場が食う」ともいわれ、最終的には、胴元つまり主催者の懐に入るのだ、ともいうではないか。分かっちゃいるけど止められないって。しかしここで考えてみよう。博打をするのか、しないのか、自分自身で賭けるのだ。しなければ自分の勝ち、すれば自分の負け、その分貯金だ。そんなくだらんことを、と思えば意志薄弱だ。競輪選手、関優勝とその奥さんの苦労を垣間見て、それでもするというのなら「ホドホド」という鉄の意志を持とう。
  • 行け!稲中卓球部

    古谷実

    心と言葉の関係
    2008年2月17日
    稲豊中学卓球部を中心とした出来事はどのような展開をみせるのでしょうか、ハラハラとした中で、面白さもふくらんでいくようです。このハラハラは、ハラハラと見せようとしている作者の腕の見せどころなのでしょう。一つ一つの画面も大切、一字一句のセリフも大切、作者の手練手管に乗せられ、流されていく道中に停滞と退屈を感じさせなければ一定の評価が得られた、といえるのです。言葉についても、心と言葉の持つ意味との結びつきほど大切なものはありません。例えば、注意をするということは、相手に対して、気をつけさせたり、用心をさせるように、指示することですが、これに語気を強めれば叱ることになり、感情を交えれば怒る、という事にもなるのです。そして相手も、これはイジメだ、と捉えれば、会話の趣旨は損なわれてしまうのです。誰でも最初から、これは叱りだ、これはイジメだ、などと考えての行動なんかしないのです。しかし聞く者は、言われた瞬間に判断する傾向があるのです。心と言葉の関係は難しいです。
  • クッキングパパ

    うえやまとち

    心もお腹も八分目
    2008年2月17日
    「荒岩一味、金丸産業、営業主任だア」太い声が、それでも明るく聞こえてくるような楽しい本です。だって人は食べることが大好きだからです。美味しいものを食った思い出はいつまでたっても忘れることが出来ないのです。しかし、味そのものを口の中で思い出せと言われても、正確には出来ないのです。だからまた食べに行くのです。記憶と実感の差異は、何も味だけではないのですが、幾度となく実感を求めたくなるのが味なのです。さすがに、仏教でもいわれている、人間の五種の欲望、即ち、色・声・香・味・触、のうちの一つですなア。でも、どのような欲望でも、飽きるまで求め続けるのは良くないことです。飽きない程度に求めてこそ意欲が湧くというものです。そのようなややこしいことは出来ない、と思われる方もおられるでしょうが、簡単、簡単、心もお腹も皆八分目で終わることを徹底すればよいのです。しかし、一度、荒岩さんの弁当も食べてみたいですなア。
    いいね
    0件
  • からくりサーカス

    藤田和日郎

    カラクリのカラクリとは?
    2008年2月17日
    からくり、とは漢字では絡繰と書き、操ること、仕掛け、装置、人を欺き何かを企む、などなど多くの意味合いに解釈されている。加藤鳴海、才賀勝、しろがね達とが、そのからくり人形を交えて暴れる物語だ。からくり人形といえば、今では人型ロボットへと変化してきたともいえよう。ロボットという解釈も、電気仕掛けの人造人間から、自動制御装置にまで意味を広げてきている。そしてまた、このような機械技術の進歩は、人にどのような恩恵を与えてきたのだろうか、と考えてみれば、むしろ逆に、これらの発展は企業という怪物の採算性から人をリストラという言葉でハジキ飛ばしているのだった。人型ロボットの改良が進めば、介護作業や、いろいろな処理作業に利用できるともいわれているが、例えば、介護士資格者はどうなるのだろうか。今ではまだ、人型ロボットへの期待は明るく大きいものの、その中にも何かのからくりがあるのだろうか。
    いいね
    0件
  • 電車男~ネット発、各駅停車のラブ・ストーリー~

    原秀則

    純情さは今も昔も同じ
    2008年2月17日
    「電車男」といわれる青年が、ネット掲示板の多数意見を参考にして、事を進めていくところからが、始まり・始まりだ。今は、携帯やパソコンによるメールのやり取りが、電話や手紙を押し退けて、主流となってきている。デメリットがあっても、もう辞めることは出来ない。また、デメリットの中には、手紙による書体の味わいや、幾度となく簡単に反復できる長文での作文力と深み、が省かれがちであり、電話による音声での懐かしさも喪失されてきている。そしてなるべく短く、凝縮された単語が飛び交い、意思の疎通をはかろうとされていく。しかし、それが良いとか悪いとかは人によりけりであり、イヤなら自分が思うものを使えば良いだけである。要するに、心と心の伝達の手段にメールというものが一つ加わっただけなのである。「電車男」の純情さは、大昔からある青春を迎えた男達と同じだ。好きな女性の前では、トキメキのために、息をするのも苦痛に思える。このことに変わりがないことが嬉しい。
  • 山遊亭海彦

    さだやす圭/立川談四楼

    女は高らかに笑う?
    2008年2月17日
    落語家・三遊亭海彦はどのような活躍をみせてくれるのでしょうか。また、お笑いの世界のお笑い以外の模様も、垣間見ることができるのでしょうか。お笑いといえば、近ごろのものは、相手の頭を叩いたり、自分が叩かれたりの、自虐・他虐の多発です。その時は笑えても、後味という点ではどうでしょうか。言葉による、腹の底から来る笑いには、思い出し笑いという、いい後味があります。常識と非常識の狭間にあるものを想定して、言葉とし、滑稽さを生み出させる笑いを求めても、現今では、年齢差による常識の範囲がハッキリと違っています。たとえば食べ物についても、昔はもったいないが常識であったが、今は賞味期限が過ぎれば捨てる物、となっているのです。お笑いの中味が年齢層によって違ってくるのも当然なのでしょう。また、高齢者の笑いにも男女での違いがあります。男は密かに笑い、女は高らかに笑います。女の、笑いを捕らえるアンテナが鋭いのでしょう。笑いは寿命にも影響してくるのでしょうか。
  • ビッグマグナム黒岩先生

    新田たつお

    親の責任はこれ
    2008年2月16日
    文部省直属・特別第一指導教育課・黒岩鉄夫先生の活躍物語です。「いじめ」や「学校暴力」といった問題を憂いて、空想話しのなかから、解決への道を探ろうとするものです。正義にも力が必要だとするセリフや、暴力には暴力で向かう画面など、一見無謀的に思えるようですが、生徒それぞれの根底にある、人間としての寂しさも表現されていて、暴力排除への姿勢がうかがえるようです。だいたい人間って、生まれてきてから少しずつ、世の中のことを知っていくのです。だから親が教え、周りが教えて、躾けていくのです。それを忘れて、子供を可愛がることは、怒らないことだとして甘やかし、叱るべきときにも笑って済ませ、その挙句、指導していくことを忘れて放任となるのです。子供たちが十代を越えるころ、このことが自我の欲望のみを目覚めさせるのです。総ての大人たちが、怒ることより、叱ることに気配りを示して、せめてわが子から、人間としての躾けを心掛けたいものです。お父さん、お母さん達の責任はこれなんですよ。
  • 我ら九人の甲子園

    高橋三千綱/かざま鋭二

    無数の夢飲む甲子園
    2008年2月2日
    高校野球の晴れの舞台は、なんといっても甲子園だ。その舞台へ登るため、球児達は血の汗を流す。発案者とそれを発展させてきた方々に脱帽だ。多くの選手達や、ファン達、関係者を含めて、数え切れない人達の夢を、甲子園は飲んできている。野球を含め、人はなぜスポーツなどにこだわるのだろうか。そこには、人間としての究極的な、精神と肉体への酷使と、それでも、命までには及ばないという中での勝敗に惹かれるからだろう。また、早い時期からの、仲間意識や、連帯感という温もりを生じさせるのも確かだ。人間の意識で認知できる一分一秒を、確実に握り締めようとする、精神の研ぎ澄ましへ向う躍動の姿も美しい。(一億分の一秒とか一兆分の一秒とかの世界もあるが、人間ではこれの現在を認知することはできない。一秒の中にはこれの未来・現在・過去があるのに)。人間の限界を追求していこうとする試みは代々にわたって続いていく。
  • お~い!竜馬

    小山ゆう/武田鉄矢

    時は明日も走ってる
    2008年1月28日
    秩序とは、物事が正しく順序立てられていることをいい、正しいとは、間違いがない、ということである。坂本竜馬が生きた時代は、宿命によって生じている人間の格差が、秩序であり、侵すことはできなかった。しかし、やがて、正しいという中味が変わってくる。時を得れば秩序も変わっていくのだろう。多くの歴史を見てみれば、それぞれに変動・激動の時代があり、今を生きている者にとっては、今が激動の時代なのである。そしてまた秩序も少しずつ変わっていく。本誌冒頭に記述してある1835年は、今の2008年から見れば173年前である。人の出生が、約25年間隔で祖父・親・子・孫と変わっていくならば、この話は、約7代前、つまり7人前のことである。その時代から今日まで、服装や言葉や環境や、と、いろいろな物が変わってきた。このことが良いのか、悪いのか、分からないまま、今の秩序という荷物とともに、時は明日も走っていくのだろう。
  • スプリンター

    小山ゆう

    感情の究極は泣く
    2008年1月27日
    人間感情の究極的発露は「泣く」ことです。悲し涙、くやし涙、嬉し涙、などなど、涙は笑いの中でも出ます。だから人は、嬉し涙なら沢山だして泣いていたいものですね。しかし、たまにしか出ないのが嬉し涙です。嬉しさで泣けることって僅かなんですよ。その涙を出すために、悔し涙を幾度となく出して頑張らねばならないのは確かです。嬉し涙はそのご褒美なんです。このように考えてくると、人の心って大変なものなんですね。心の動き一つひとつが、体の動き一つひとつを決めるんです。本誌、結城光と水沢裕子の心もどうなんでしょう。若い時の遠回りは、いろいろなことが経験できるため歓迎されるのですが、当事者達はそれをムダと捉えるようなんです。若さってなぜか、せっかちなんです。しかし、若さでいいことは、皆がスタートラインに立っているということで、それぞれの人間関係に同列感があり、遠慮がいらないということなんです。それが歳をとれば、社会的な格差のようなものが肩に張り付き、同列感がなくなるのですね。まあしかし、あれこれ考えながら読むのも楽しいもんです。
  • 奈緒子

    中原裕/坂田信弘

    人は人の為に生きる
    2008年1月27日
    最近、人は、人のために生きていってこそ、その幸福が自分のもとへ帰って来る、ということを忘れてしまったのではないでしょうか。人の心に活力を与える滅私の行動こそが、多数の人を動かす結果となるのです。力で人を押さえつければ、その人が弱れば排斥され、真心で人をなびかせれば、弱ったときにも、助けられるのです。なぜなら、人は群れて生きようとするため、その群れの中での安心を求めるからなのです。真心には、思いやりからくる協調があります。一時期、思いやりは迎合だと捉える人や、協調は安易な妥協であると捉えて蔑んだ時があったようです。要するに、自己の栄達のみを中心とし、真心より、征服への作戦を重視するといった状況になってしまっているのでしょう。一人ひとりが肩を抱き合い、助け合って「人」という字を形成しているのだということを、再認識したいものです。本誌「奈緒子」では、どのような真心が育っていくのでしょうか。
  • 龍-RON-

    村上もとか

    暴力と武力との違い
    2008年1月27日
    1928年、昭和3年ごろから始まる物語です。押小路 龍が、通称「武専」に入学した時からの、剣道を主体としたものです。この種の物語は筋の進展から得る爽快感や鬱憤晴らしなどもありますが、少し深く掘り下げて読んでみるのも一興ではないでしょうか。たとえば「暴力」と「武力」の違いは何なんでしょうか。暴力とは、力のみを誇示し、力によって人を制すること、ともいえるでしょう。そして武力とは何か、訓練された勇猛な力であり、弱きを助ける、と、文字に書けばこのようなことにもなるのでしょう。また、それでは良くわからないというところから、「道」という文字を付けて「武道」としたのでしょう。道とは、人としておこなわなければならない義理・人情をいうからです。だから暴力ではない、としたのではないでしょうか。しかし、更に深く掘り下げてみると、武道、即ち、剣道も、その極意は、いかに早く相手を葬るかにかかっているのです。でもその術には神技的なものがあるため、スポーツとして高められていったのでしょう。
  • がんばれ元気

    小山ゆう

    拳闘はケンカじゃない
    2008年1月27日
    どのようなことにでも、その実行には、それなりの根性が必要だ。またどのような道に進もうととも争いはつきものなのだ。そしてその争いも、つとめて他人のせいにせず、またその対処も、他人の力を借りず、自分の努力と忍耐だけで解決していくのだとしなければ進歩はない。人と争う場合、憎しみや蔑みをもっておこなうことは厳禁である。そういった心をもって臨んだ場合、相手の心は読めない。争いの中で冷静さを求めるのもそのためである。争えば、争うほど、その者を理解していくチャンスなのである。相手への気配りによって、自分の心から憎しみや腹立たしさを消すことが会得できれば最高である。しかし、かくいう私には難しいことだが、努力目標の一つでもある。いずれにしても、「元気」の父「シャーク堀口」の言葉の中で、「ボクシングはケンカではない」というところがあったが、それを読んで、更に読むことを続けている。
  • ぼのぼの

    いがらしみきお

    ゆっくり、ゆったり
    2008年1月27日
    ゆったりとしたものが、ゆったりと流れていく。粘りのある、よどみとなってなってなのか、アッサリと清楚な湧き水となってなのかは判らない。いずれにしても読後間は、柔らかく、穏やかなのだ。第19巻「ウマちゃん」を読んでこんなことを考えてみた。仮に「ワカルちゃん」と呼んでおこう。「ワカルちゃん」は、いつも飛んでいるが、時々人のおでこに止まるんだ。そしてその人の優しさを数字でいうのだ。「やさしさ60、やさしさ60」と。そしてまた次の人のところへいって「やさしさ68、やさしさ68」という。だから優しさ60の人と優しさ60の人となら相性は抜群となるのだ。優しさ60の人にとって優しさ68の人では頼りないであろう。でも相性が抜群に良ければ完璧なのだろうか。二人が逆境に立って不安にさらされた時、もう一人が奮い立って、相手を引っ張り上げねばならない場合もあろう、その時にこそ相性の違い功を奏するのだ。そう思った時「ワカルちゃん」もいなくなっていた。
    いいね
    0件
  • サバイバル

    さいとう・たかを

    ヤジロベエのように
    2008年1月7日
    破壊された文明、文明社会といわれてきた遺物、遺風の中で生きるサトル少年の物語は、中年以上の者からでも有名です。現実でも、何時起きるか判らない天変地異、ましてや地球温暖化による異常現象は兆候を越えようともしているのです。皆さん、「弥次郎兵衛」という玩具を思い出してください。そうそう、あの重心安定の理論を応用した、別名、釣合い人形のことですよ。弥次郎兵衛の動きは、右に重さが加われば右に傾き、左に重さが加われば左に傾きますが、その傾き加減によって均衡を保つよう、傾きの反対側に重さを加えて平均調整をするのです。ところがその重さの加わり方によっては、幾ら少ない重さでも、ある傾きの角度を越えると、一気に傾斜が速度を増して、均衡が破れるのです。今の世界がその壊滅への方向に傾いてきているとはいえないでしょうか、人間としての不安、心配は増えるばかりです。「サバイバル」を読んだら、弥次郎兵衛の均衡が保たれるようなムダ、ムリのない生活を心掛けようではありませんか。一人ひとりの力が結集されたら大きいですよ。
  • 人間交差点

    矢島正雄/弘兼憲史

    人間交差点ってどこ?
    2008年1月7日
    ある辞書によると、「交差」とは二本の道や線が十字に交わること。としており「点」はその「所」ということになるのである。しかし「人間交差点」は、ある人と人が、縁を生じさせる出会いをいうのであろう。また縁から、それぞれを更に深く結びつけていく絆へと進むに従って、それぞれ一人ひとりが、一本の糸の半分に対しての、離れ難き責任(義務)を担うことになっていくのであろう。だから、道や線の交差は二本かも知れぬが、人間の交差は半本と半本の糸からの始まりなのである。しかし、自分が何時、その交差点を過ぎたのかは判らないのだ。命を老いへと運んでいく間にある運命の変遷の中で、その時、無意識で通り過ぎていくからであろう。 自分の「人間交差点」って何処だったか教えて? ほとんどの人はそういうのだ。だからまず、この本の中で生きている、人の心を読んでみようよ。
  • 蟲師

    漆原友紀

    蟲は虫の本字である。
    2007年12月28日
    蟲は虫の本字である。そして、虫より蟲のほうが多数かたまって蠢(うごめ)くようすを想像させてくれる。大きい虫より、小さくて密集した蟲のほうに、人の、背筋にまでゾクッとさせる感覚を与えるからだろう。しかし、なぜそうなるのかは判らない。多分、人の持つ理解度が、瞬時の考察力とで離し、未知で嫌悪の幻覚を生じさせるからであろうか。また人には、いろいろな思考がある。幻想、空想、夢想、予想、妄想などなどきりがない。信じることも疑うことも思考の範疇である。哲学は疑うことであり、宗教は信じることである。といったことを聞いたこともある。宇宙的規模でみた場合、哲学的には、地球でみたリンゴの色と、火星でみたリンゴの色は違うはずなのである。ではリンゴの真の色とは一体どうなんだ。つまり地球で見るリンゴの色への疑いなのである。また宗教に関しては神や仏の存在は絶対なのである。人それぞれが持つ「心」に偉大さがあって、それが不思議なのである。蟲師ギンコがこんな愚考蟲群を体から出してくれた。
  • 月下の棋士

    能條純一

    人生すべからく読比べ
    2007年12月28日
    一時期、将棋は大衆を魅了していた娯楽だった。一つの盤を囲んで、先手と後手が相対し、その回りでは数人の野次馬が観戦しつつ、野次っていたものである。また将棋にはいろいろな遊びがあり、詰め将棋、はさみ将棋、などにも人気があったのを覚えている。しかし、何と言っても、本将棋といわれたものであった。奥が深く、極めるためには、その個人が持っているあらゆる、かつ最高の力量が必要であった。だから素人で中途半端な知識と読みではできないと知りつつも、やはり強くなりたいとして、いわゆる名人や有段者達の指し手を見て勉強したものである。本書は、氷室将介という若者の将棋名人を目指す険しい道のりが語られている。どんなことでも、どのような場合でも、人は「読み」というものを重要視し、先を予測しようとしている。その時、例えるのが将棋の駒だが、人は駒のように動かないこともをも知っている。しかしそれでも駒に例えるのは何故か。人生すべからく「読み比べ」だからだ。
  • 黒田・三十六計

    平田弘史

    勝つための指針や
    2007年12月28日
    中国で、逃げることが最上の兵法である、とした三十六計策があった。この物語は我が国での、織田信長達が、生きている証を発揮している時のこと、黒田官兵衛高考という武士の生きざまを描いたものである。どの話もそうだが、人は、人が命を賭けて事を成すことに感動を覚えるものだ。たぶん自分にはできないからだと思っているからであろう。そして兵法とは、命を賭ける者達への、勝つためへの指針であることは周知の通りだ。逃げることも、敵を作らないことも、最終的には勝つためである。つまり自分の勢力を伸ばすためなのである。選別されていく世の中ではやむを得まい。要するに、生きていくということは、ストレスなのである。この事実を承服してこそ兵法にも活用の値打ちがでてこよう。ストレスの無いことを願うより、耐えることは、気に耐えること、即ち鍛えることだとして、ストレスに莞爾する時、打つ策略に妙味を見ることができるのだ。
  • 男樹

    本宮ひろ志

    世の中には色々な力が
    2007年12月8日
    村田京介という男を主人公にした暴力ものだ。普通の者にはできない死闘を安全な立場の中で痛快さを見させようとさせる、弱々しい読者のための一品だ。動物は群れて生きていく習性があり、それによって外敵から身を守り、互いが利用し合おうとする。更にその中にあって、自分の子孫をのこすために、自己を大きく見せようとする本能もある。人間も同じだ。ただし、人間には理性というものがある。しかし、その理性で本能を押さえつけるのは、並み大抵の修養ではできまい。人であるために、そこに葛藤があるのだ。世の中には色々な力がある。引力から磁力、風力、生命力、体力、気力、忍耐力などなど枚挙にいとまがない。武力、暴力だけは無い、なんていうことはない。問題は、それらを総て認めてどうするか、だ。地球が滅びるか、これらの問題が解決できるのか、という長い宿題でもあろう。
  • 猛き黄金の国 岩崎弥太郎

    本宮ひろ志

    今こそが激動の時代
    2007年12月8日
    幕末以降にかけての、三菱という閥を築き上げた岩崎弥太郎の物語である。いつの時代でも、その時に生きている者にとっては、今こそが激動の時代であろうが、この時代も特筆すべき事柄が多い。ひとつの秩序が変化する時の人の行動の刹那感の増幅と、乱れの蔓延を画くのも腕のみせどころだ。とにかく人間とは解りにくいものである。人を助ける人間もいれば、人を殺す人間もいる。更には一人の人間で両方おこなう場合もあろう。愛は崇高だと多くの人はいうが、人に与える愛と、人から与えられようとする愛とでは大きな異なりがある。そして、人は皆、両面を持っているのだ。つまり人間の二面性なのである。自己の人間としての成長度、人と人との結びつき、周囲の環境、社会の流れ(今では世界の流れ)などなどによって、人はどちらかの面を出し入れして、勝負していくのであろう。過程を充実させていってこそ実現できる結果を求めて。
  • あした天気になあれ

    ちばてつや

    あした天気を読んで
    2007年12月5日
    プロ・ゴルファーを目指す、向 太陽君の話だ。毎日が、あした天気になあれ、と共に、あした元気になあれ、だ。ともあれ、どのようなことをする場合でも、人にはそれぞれが持って生まれた「素質」というものがある。その素質に努力が加味されて人間は成長していくのだろう。ある物事への完成度を百とみて、素質を五十とみるならば、努力が五十となり、素質が八十なら努力は二十という勘定もできるだろう。しかし、そんな理屈をつけても、素質の度合いなど判るはずがない。それでも、人それぞれに努力の差が違うのだ。それは、素質が努力を呼び込むからかもしれない。更に、目標とするものが、自分にとって望むべきものであるのか否かによって「運」の付きも変わってくるのだろう。素質と努力と目標が相俟った時、「運」が幸せを持って舞い降りてくるのだろう。読みながらそんなことを思った。
  • 赤龍王

    本宮ひろ志

    赤龍王を読んで
    2007年12月4日
    秦の始皇帝から、劉邦を中心としての中国変転の歴史は、幾多の書物でも語られていて超有名である。当時活躍した人物達の雄大な魂の流れが、今を生きる人の心を魅了するのだろう。「赤龍王」での劉邦の動きはどうだろう。しかし、考えてみれば、人の生き様とは何も、群雄割拠の時代だけ目立つものでもないであろう。いつの時代でも、それぞれの人間には、それぞれの人間が感じる「精一杯」があるのだ。だからこそ、中国の歴史も、夏や商の時代からの戦いの繰り返しがあり、世界史、日本史などなど、人と人との殺し合いは今日にまで及んでいるのであろう。人も縄張りが必要であり、それを広めていく習性がある。だからこそ、平和の必要性、重要性を掲げつつも相手との境界で対立をした時、それらが妨げられるのも不思議ではないのだ。今では確かに、戦いの頻度は少なくなってきたであろうが、強力な武器による抑止力が増大したからであろう。玄関のカギすらも複雑になってきた。抑止力増強への方向はここにもある。
  • ゴルゴ13

    さいとう・たかを

    たった一人の殺し屋
    2007年11月24日
    世界をまたにかけた、たった一人の殺し屋物語である。一度契約をすればその契約者を裏切ることは無い。金とゴルゴ13との間での正義なのだ。また各巻に繰り広げられる殺戮もパターンは似ているものの、味わいへの工夫は脱帽せざる得ない。ただゴルゴ13の顔や姿もじょじょに歳をとったかと思うのは、長年の愛読からくるものであろう。ともあれ人には「性善説」や「性悪説」なるものがあろうが、自己保存の本能の充実を幸福とするならば、そのために邪魔になる者は排除の対象となろう。即ち「性悪説」である。その今の世相が反映されているところに、ゴルゴ13がガス抜きの役目を担ってくれている。しかし、利益率アップと採算性向上のための技術力の進歩によって、不幸になっていく人間達。この者達の増加はますますゴルゴ13の仕事を増やしていくのかもしれない。更に、今の刑法は、責任能力が無ければ極刑はない。加害者の責任能力の有無によって、被害者の周囲の者達の復讐心が薄められることはないのである。ゴルゴ13の仕事が増えないように被害者の立場にたった法改正も必要だろう。
  • 雲にのる

    本宮ひろ志

    雲にのる
    2007年11月24日
    仁王丸という主人公が、仏教の四劫である、成劫、住劫、壊劫、空劫という流れの中で活躍していく物語である。そして絵には孫子の兵法なるものも織り込まれてあって楽しませてくれる。余談にはなるが、宇宙の最大の不思議は「時間の存在」なのである。時間がなければ何も無い。ところが現実は、時間帯という、とてつもなく長い広い帯となって存在し、かつ流れているのだ。あらゆる現象もその帯の中で共に流れている。人の無数の意識という泡も無から生まれて浮かび、そしてはじけて消えて、始めの無に消えていく。これもまた森羅万象のごくごく小さい一つだ。成劫、住劫、壊劫を経て消えていくのが当然である。「雲にのる」を読んでいる時は面白さが先行していて話に引きずり込まれるが、読後感として、人それぞれに空想ができよう。空劫とは何かを考えるのも一興だ。ただし本は、仏教礼賛ではない。
  • COBRA

    寺沢武一

    コブラ
    2007年11月24日
    「コブラ」という一匹海賊が、色々な悪をやっつけ続けるという設定である。その物語の進め方や内容は、読者の知能を魅惑な魔境的期待へと誘ってくれる。それに追い討ちを掛けて「絵」の緻密さも、神経のツボを心得たように次々と展開させてくれる。各巻の中には少々作者としての「生みの苦しみ」的進展を感じるものもあるが、それでも面白い。「コブラ」全巻の中で活躍する登場人物の姿態や表情にまで、心を打ち込んで書いている作者の息吹と情魂が感じられる作品である。例えばクリスタルボーイひとつとっても、巻頭より終わりに近いほど「絵」に凄さが増してきた、というように、進展と共にある成長も加味させた「画面」に、一回で読み捨てでは余りにも惜しい作品である。
  • 大いなる完

    本宮ひろ志

    鉄馬完を読んで
    2007年12月4日
    鉄馬完という小作人の子が、成長しつつ名を成していくという話。この種の根性ものの物語は、登場人物がだれであっても達成されていく過程の爽快感である。苦しみに耐え、更なる苦しみにも耐えていきつつ、事が成就されていくという、現実にはできない行動に読者の空想感を満足させてくれるのだろう。反面、読む者の年代により、暴行が相手の生命の限界を超えるような場面でも、それが空想であるとは考えず、人間として当然に耐え得る範囲だと思うところに心配もある。ともあれ、この本を読みながら「個性を伸ばせ」、「自主性を高めよ」と一時よく言われた言葉を思い出した。それによって、何のためにそうするかも教えないまま、ただ自己中心的な人間育成をしてきていたことも、である。「思想信条の自由」ということであるために「個性も自主性も社会に還元していくためである」と踏み込めないでいる大人の責任は重い。鉄馬の獄中立候補が、勇介のために戦ってくれという高子の願いをいれて、小作人のために戦うという動機のややこしさの中に、自己中心的な影がある。